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食品・生活衛生や動物関係を主幹する課の獣医さんは、獣医師だけでなく、薬剤師、栄養士さんや一般行政職の方たちと一緒に仕事をします。
仕事の中身は、まあ一言で言ってしまえば、保健所の食品・生活衛生部門と動物部門、そして食肉衛生検査所の管理運営です。
メインは予算編成と県条例や規則、国の指示の変更に伴う県の関連通知の改正。そして庁内調整、マスコミや議会対応。
さてそんな主幹課で担当、課長補佐、課長という役職に着いた獣医さんって、どんな仕事をしているのか。
今回はこれをお話しします。
担当の仕事と向き合う人達
担当は、自分の担当する法令に関係する統計報告や調査物への回答立案、県条例や県規則改正案の立案、国の指示を受けて行う県の要領改正や指示の発出、予算積算と要求書の作成、そして県内各所で発生した有事案件への対処が大きな仕事です。
これらの仕事を進めるため、県内の保健所や食肉衛生検査所、衛生研究所の担当者と情報交換することはもちろん、必要があれば国の担当者や他県や県内市町村の担当者に問い合わせたり、庁内の法令担当や予算編成担当と議論しながら作業することになります。
一般行政職として採用された法令・予算担当者と議論を重ねるということは、一体どういうことか。
一般行政職として県に採用された人達は、高い競争率をかいくぐって入ってきています。物事の急所を捉える能力、論理的思考の展開や文章表現力、ディベート力は抜群です。
それに対してこちらは論理的思考の展開や文章表現、ディベートのトレーニングなんかしたことのない、彼らにすれば、ただの技術屋さん。
その2者が議論をする。
言うならば、大人と子供が議論をするようなものです。
まずは県の条例や規則の改正。
獣医系大学出身者はコチコチの理系。
学術文献というのはある種のフォーマットで文章が構成されているし、大学時代にさんざん読まされているので、専門用語が理解できればなんとか読めるし、書くこともまあできる。
けれど法律を読み解くトレーニングを学生のうちからやってた獣医さんなんか、一人もいません。
複雑に絡み合う法律を読み解いて系統的に理解して臨まないと、法律の改正文の立案なんて絶対できないのです。
拙くも見よう見まねで書き上げた改正文と絡み合う法令一式を持って庁内の法令担当に一から説明して理解してもらい、改正文の添削をしてもらう。
県庁の法令担当は、大学で法学を専門に勉強してきた専門家。
核心を突く質問を次々と浴びせられては回答できずに持ち帰ること数回で、ようやく形になってきます。改正には議会の議決が必要なので、作業もただダラダラやってるわけにはいかず、議会開催の時期をにらんで作業を進めなければなりません。
そして予算編成。
次年度当初予算の編成やその年度の過不足を補うための補正予算の編成は、年間スケジュールが決まっており、それに合わせて全庁的に作業が進んでいきます。
維持経費的な予算は前年度見合いで積み上げればある程度形になるのでまだましですが、新規案件はもう大変。積算をきちんとやらないと、予算担当から鼻で笑われて突き返されて終わりです。全庁的に決められている積算ルールも自ら勉強し、それを織り込んで作る必要があります。
国庫補助が必要な案件ならば国の担当者との連携も必要ですし、スケジュール管理もきちんとしておかないといけません。今年度分は予算枠がなくなったから終了です、なんて言われた日には、これまで積み上げてきたものがいっぺんに崩壊してしまいます。
そんな法改正や予算に加え、国や他県からの調査物への回答作成、定期統計事務の締め切りに日々追いまくられる中、容赦なく有事案件が発生します。
食中毒を疑う事案や流通食品の不良、宿泊施設や公衆浴場でのレジオネラ感染を疑う事案、人に危害が発生した、あるいは社会問題化した重大な動物案件。
そんな案件が県内のどこかで発生すれば、今目の前でやってるすべての事務を放り出して、その情報収集と報道発表準備に取りかかって情報を整理し、課長補佐や課長に迅速に上げてやる。
各案件の初動、つまり「報道発表案件になるかもしれない」という情報を得た時点から対応しているので、実際に世間の皆さんがニュースで知り得る案件の数倍の数は、有事対応で作業しています。
県庁主幹課で県内各所の有事案件を一手に引き受けるので、重なるときは、まあ、重なる。あちらの保健所から一報が入ったと思ったら、今度は別の保健所からの電話…。
弱り目に祟り目、ってやつですね。
複数の有事案件に平行で対処している時なんか、もう自分が今何やってるかすら、危うくなってきます。
課長補佐の仕事と向き合う人達
課長補佐の仕事は庁内調整と外部関係者の窓口です。
担当部署と連絡を取り合いながら自分の課の予算、法改正スケジュールを全庁的なスケジュールに乗せてやり、進行管理します。
また、食品・生活衛生、動物に関係する様々な団体との情報交換窓口にもなります。
そして課長と共に行う、何よりも大きな仕事があります。
庁内の上司、つまり所属する部の部長や知事、そして県議会議員への仕事の説明。「レクチャー」といわれる作業ですね。
このレクチャーを経て、部長や知事、そして県議会議員が、議会などの公式の場で答弁をするのです。だから部長や知事、議員も真剣勝負でこちらに向かってきます。
考えてもみてください。
部長級はもともと高い競争をくぐり抜けて県に入ってきた一般行政職の人達の中から、若い頃から2~3年ごとにあらゆる部署へ異動しながらそれぞれの分野の法令を読み解いて難題を解決し続け、同期や同僚を押しのけて部長職を勝ち取った県庁の生え抜き。知事だって議員だってあらゆる強敵をふるい落として勝ち上がってきた人達です。もう論理的思考と判断力の権化のような人達ばかりです。
軽々しい発言なんてできるはずありません。言葉のひとこと、活字の1行ごとに根拠を持って、必死に説明していきます。
レクチャーは予算編成や議会開催前にピークを迎えます。
相手はこちらの仕事に関しては全くの門外漢。しかも恐ろしく頭が切れる。
あらゆる案件を、専門用語を思いきり噛み砕いて、こちらの意図を理解してもらえるように極めて分かりやすく、言葉を選んで丁寧に、しかも短時間で伝える。
相手の質問には必ず応じ、求められた資料は必ず提出。その場で返せない部分は持ち帰って整理し直し、後日改めて説明に行く。
レクチャーは予算や議会案件だけではありません。
有事案件が発生した場合は所属の部長に進捗状況を逐次報告。そしてマスコミ発表が決定した案件は、知事まで情報を入れます。
有事案件をマスコミ発表した後は、課内にマスコミ各社からの質問の電話が一斉に鳴り響きます。大抵は、課長補佐がこの電話を一手に引き受けています。
そんなこんなで脂汗と冷や汗をかきながら、レクチャー資料と分厚いファイルを大きなカバンに詰め込んで県庁内の部長室や広報室、時には知事室まで日々駆け回る。座れば電話、机には決済書類の山。そしてパソコンを開ければうんざりするようなメールの山。これが県庁の課長補佐です。
担当も大変な業務量を背負っていますが、課長補佐は、担当とは別次元の仕事を担っているのです。
課長の仕事と向き合う人達
そして課長。
課長は表看板。
レクチャーの際、資料作りや数字出しは担当や課長補佐がやってくれますが、県議会議員、部長や知事に直接発言するのは課長です。
また、県議会の各種委員会の席上で公式見解を発言させられることもあります。
まさに毎日が針のムシロ状態…。
そして課長の先決事項でトップシークレット。
そうです。所管する課や出先機関に所属する獣医師の人事編成です。ここで課長は、直接の上司である部長達の本当の素顔、人事担当課の考え方の実態を、目の当たりにしているはず。
人事を編成している課長が見ている景色。
申し訳ありませんが、こればっかりは体験したことがないので分かりません。
ただ、次年度の採用試験が一段落した毎年の秋頃にはもう、次年度体制の青写真が出来上がっているはずです。なのでおそらく、夏にはもう人事編成作業を開始しているのでしょうね。
県庁の獣医は「翻訳者」
やってみてつくづく思いました。
県庁の獣医は担当、補佐、課長、どの役職であれ「翻訳者」なのだと。
ここまでお話ししてきたように、それぞれの役職で、これまで会うことはまずなかった人達と仕事で向き合うことになります。
彼らに分かってもらえないと、仕事が前に進まない。前に進まなければ、現場に投入しなければならないお金も人も、手に入らない。
獣医さんがいる職場でやっていること。現場で大きな障壁となっていること。そうしたことを、全く予備知識のない人達に分かる言葉に翻訳し、理解してもらう。
結局はお金や人をもらおうとする話です。きれいごとだけで進めるはずもありません。時には現場の獣医さんに総スカンを食うような話も持ち出さないといけません。裏事情を知らない同僚や先輩からひどい言葉を投げかけられることも多々あります。
それでも県庁主幹課にいる獣医さんは、現場のあるべき形を見据えながら、日々各所を走り回っています。
彼らがいなければ、公衆衛生獣医師の現場は県の組織の中にまともに存在することすらできないのです。
公務員として働く獣医さん全員が必ず県庁に行く訳ではないので、県庁勤めの獣医さんの実態を知る人は、同じ公務員獣医さんでもそう多くはありません。
これから公務員獣医になろうとしている人だけでなく、知らずにいる現職の公務員獣医さんにも、どうか彼らの悪戦苦闘している姿を知っていて欲しいと思います。
「いただきまーす!」(無償配布)
本作品は2020/4/19から2022/3/6までの間に「小説家になろう」にて連載され、通算4,883人、13,530PVと大変多くの方々からご愛顧いただきました。
この場をお借りして御礼申し上げます。
この度、「小説家になろう」を卒業させていただき、読みやすい縦書きに再編集し、電子書籍としました。
食肉衛生検査所や保健所って、ぶっちゃけどんな感じなんだろ…。
そんなあなたに、少しでも何かを感じてもらえたら。
そして今、現在公衆衛生獣医師として勤務している方の、何かのきっかけ作りになれたらいいな。
そんな思いを込めて、お届けします。(全6巻)
いただきまーす! 第1巻
いただきまーす! 第2巻
いただきまーす! 第3巻
いただきまーす! 第4巻
いただきまーす! 第5巻
いただきまーす! 第6巻
「自分で仕事して、今度は自分の舌で確かめる。先生方もなかなか乙な商売だねえ。」
(第1巻第3話)
「居場所を見つければ、迷いは消える。そういう人間は、強いものだよ。」
(第2巻第18話)
「県職なんか辞めちまえよ。」
そう言い放つと吉田は、あー、しゃべったらちょっとスッキリした、ちょっくらコーヒー取ってくるわ、と立ち上がり、ドリンクバーへ向かった。
(第2巻第28話)
「県職続けるとか辞めるとか、臨床やるとか他の道見つけるとか、そういうのはそのうちぽこっと答えがでちゃったりするもんさ。」
「俺みたいに、な?」
(第3巻第47話)
「俺はよ、」
「?」
「獣医さんにはあんまりいい印象ねえんだ。」
「え?」 思わず運転席の安部を見る。 「ちょっと許可事務覚えたぐらいで課の仕事全部わかったような顔して、保健所なんて獣医の仕事じゃねえ、なあんて抜かす奴を何人も見てきた。」
「じゃあ俺ら薬剤師はなんだっつうの、俺らがこの仕事、薬剤師の仕事だって思ってやってるとでも言いてえのか、ってな。」
「調剤やりたい奴は最初からそっちの道に行くし、行政に来ることなんかねえんだ。ここにいる薬剤師はみんな、こういう仕事やることになるんだろうなって、覚悟を決めてから入ってきてる。」
「役所に勤めてんだから、どこに配属されようが自分の専門分野と関係なかろうが、担当する法令をマスターして事案にあたる。そんなの当たり前のことだ。」
「大体よ、そもそもどんな仕事だろうが、仕事して人様から金もらうんだから、仕事に文句は言わねえし、仕事の手は抜かねえ。そういうのって、薬剤師とか獣医師とか以前に、人として当たり前のことだ。俺はそう思ってる。」
「だからよ、自分でやらせてくれって言って入ってきたくせに、仕事にブータラ抜かす奴見ると腹が立ってしょうがねえのよ。」
(第4巻第63話)
「俺、石野さん、山田さん、津田君。俺らは交代しながら郷浜の検査所と保健所を行き来する。みんながいてくれれば、たとえ俺が郷浜食検に転勤になったって、他の誰かが郷浜の小学生にずっと伝え続けてくれる。俺はここ郷浜で、そんな息の長い仕事をずうっとやり続けたい。そしてその先に見えてくる景色を見てみたい。そう思って、獣医職の人事システムの地域コミュニケーション担当に手を挙げたんだ。」
(第5巻第69話)
長沢がふう、と小さく息を吐き、一平に微笑む。
「そんときそんとき一生懸命考えて、選んだ道の先で後悔したり喜んだり。」
「俺の年になってもその繰り返しなんだ、実際。」
「みんなおんなじさ。」
そう言うと長沢が手元のコピー用紙を立ててトントンと揃え、一平に渡した。
(第6巻第84話)
「衛生獣医、木崎勇介(食肉衛生検査所編)」(無償配布)
本作品は2019/5/8から2019/8/3までの間に「小説家になろう」にて連載され、通算3,147人、6,388PVと大変多くの方々からご愛顧いただきました。
この場をお借りして御礼申し上げます。
この度、「小説家になろう」を卒業させていただき、読みやすい縦書きに再編集し、電子書籍としました。
平成の時代に全国の自治体で起こっていた団塊世代の大量退職。
その時、食肉衛生検査所で何が起きていたか。
平成の時代の食肉衛生検査所のリアルな姿を、食肉衛生検査所の獣医師として長く勤めていた私がお届けします。
「衛生獣医、木崎勇介(食肉衛生検査所編)」