午前十一時二十分。
と畜場一階の正面玄関脇にある、と畜場の維持管理と家畜の解体処理を担っている畜産公社の事務室。
その奥にある社長室の応接セットに、畜産公社の社長と施設課長、そして山本と一平が座っていた。
「ほう…。で、この先、どうなるんですかね?」
畜産公社の社長が、山本をじろりと見る。
「ご存じのように、炭疽は家畜伝染病予防法に定める法定伝染病です。また、人に伝染することが知られている病気です。」
「それと決まれば、その牛の処分は勿論、病畜処理室と器具機材も全て高濃度塩素での消毒措置を行うことになります。」
「炭疽となれば、と畜場全体を閉場することになりますか?」
「今回は病畜処理室で発生した案件です。」
「病畜処理室はこのと畜場の一角にある施設ですが、こうした事案を想定して係留所から冷蔵庫、排水路に至るまで、全てが独立しています。」
「つまり構造上、病畜処理室だけで病原体の封じ込めが可能なのです。」
「また、今回の牛と他の家畜との交差はなく、解体に関わった作業者、検査員には処理室から出ないよう指示しています。」
「以上の状況を説明した上で、改めて県庁、家畜保健所に確認しますが、現時点では病畜処理室のみでの洗浄・消毒を想定しています。」
「現在稼働している豚の一般畜解体処理は、まずはそのまま続行、かと。」
「このあたりも県庁、家畜保健所に確認しておきます。」
社長が小さく頷く。
「今、病畜処理室の牛の解体は、中断させています。」
「あと数十分で出る簡易検査で炭疽とする所見が出れば、直ちにその牛を解体禁止として病畜処理室の冷蔵庫に保管させた後、牛の処分方法と病畜処理室の消毒方針を改めて県庁、家畜保健所と確認した上で、病畜処理室の洗浄と消毒を行います。」
「簡易検査で炭疽とする所見が得られなければ、平行してやっているPCR検査の結果を待ちます。」
「そしてPCRでも炭疽が否定されれば、牛の解体を再開してここの焼却炉で焼却処分し、病畜処理室は通常の洗浄・消毒となりますね。」
「炭疽となれば?」
「簡易検査で陽性と判断された時と同じ手順を踏んで、牛の処分と病畜処理室の洗浄・消毒を行います。ただ…、」
「ただ?」
「消毒が完了できたかの確認を経るまで、病畜処理室は使えなくなります。」
「消毒作業に1日、確認作業に数日、と考えてていただけたら。」
「確認だけで数日…。」
社長がため息をつく。
「病畜処理室が使えない間の病畜の処理は、里崎さんとか、他のと畜場さんに協力してもらうことになりますねえ…。」
「そのあたりは県の方からも先方にお口添えいただければ…。」
「もちろん当方でできる限りのことはさせていただきます。」
「よろしくお願いします。」
「で、PCRの結果が出るのはいつなんですか?」
「あと3時間ほどですね。」
「3時間…。」
社長が壁掛け時計を見ながら大きなため息をついた。
「で、ですね、社長。」
「高濃度塩素消毒がすぐできるよう、今から準備をします。」
「消毒用の塩素と、防塵服、ゴーグル、ガスマスク、噴霧器、白布をありったけ、病畜処理室前に集めておいてください。」
「あとは、土嚢、でしたよね。」
社長の隣で聞いていた施設課長が口を開く。
「そうです。病畜処理室から浄化槽へと続く排水路を遮断するための、土嚢。これがないと、きつい濃度の塩素がそのまま流れ込んで、浄化槽内の微生物がみんな死んじゃいますから。」
「あんなどでかい浄化槽がパーになったら、それこそと畜場全体が当分の間、閉場する騒ぎになっちゃうもんなあ…。」
施設課長の呟きに、社長の眉がぴくりと動いた。
社長が山本に向き直る。
「早速やりましょう。」
「お願いします。施設課長、うちの田中をつけますんで。な、田中君。」
山本が一平の肩をポンと叩く。
どれやりますか、と、四人が立ち上がると、山本が社長を見た。
「あとこの件、今のところは炭疽と決まった訳じゃありません。」
「無用の混乱を防ぐため、公社の幹部の皆さん以外には口外しないようにお願いします。」
「…。了解しました。」
社長は自席に戻り、どかりと腰を下ろした。