丹羽が内線電話をスピーカーモードに切り替える。
「丹羽です。ざっと聞いたけど、ぶっちゃけナベちゃんはどう思ってんの?」
内線電話の先、病畜処理室にいる渡辺に問いかける。
「正直、やべえかな、って思いますね。」
「ちゃんとやっとかないと、後で後悔すんじゃねえかって…。」
「…。わかった。バラシは今、どこまで進んでんだ?」
「頭取って、ラインに乗っけて皮剥き終わって、内蔵出たとこ。」
「じゃあそのまま待っててくれ。上に相談するから。」
「ただな、相談、って言っても、俺も見てねえんだよな。」
「どれどれ見せてみろ、って、大人数で病畜処理室にどかどか踏み込む訳にもいかないし…。」
丹羽が思案顔で腕組みをしていると、電話の向こうの渡辺が声を出す。
「俺のスマホ、誰かにドアの外まで持って来させてくれ。それで写真か動画で送る、てのは?」
「いいねえ!それでいこ!」
丹羽が木村に目をやると、木村は意を得たように小さく頷き、検査室を飛び出していった。
「田中、俺と来てくれ。」
そう言い放ち、丹羽が検査室を出る。
閉まりそうになるスライドドアをむんずと掴み、一平も丹羽の背中を追いかけていった。
検査所二階、事務室の応接セット。
次長と指導課長を兼務している山本に、丹羽、一平が向かい合って座っている。
「間もなく渡辺さんから写真かなんか、送られてきますから…、あ、きたきた!」
丹羽がテーブルに置いていた自分のスマホを拾って操作し、再びテーブルに置いた。
しかし、画面を見ようと3人の頭が一斉に寄り集まってしまい、よく見えない。
「いやこれ、いいんだけどさ、画面ちっさいよな!」
山本が思わず頭を上げる。
と、傍らで三人の様子をこわごわと覗いていた新採の川島が、おずおずと口を開いた。
「あの…。これ、テレビに出せますよ。」
「え!そうなの!」
丹羽がぐいっと川島を見る。
丹羽の勢いに気圧されそうになりながら、川島が続ける。
「え、ええ…。多分、これで繋げば。」
川島が自分のカバンからケーブルを1本取り出した。
「課長のスマホ、僕のとおんなじみたいなんで。」
「そんじゃさ、やってくれる?」
ええ、いいですよ、と川島が丹羽のスマホをひょいっと取り上げてケーブルでテレビに繋ぎ、何やらちょちょいと操作した。
「で、ほいっと。」
川島がテレビのリモコンを操作すると、病畜処理室の解体ラインに吊り下げられた牛の映像が、応接セットの傍にあるテレビの大画面に大きく映し出された!
おおおっ!と、居合わせた一同が驚きの声を上げる。
「君、すごいね!よく知ってんねえ、こんなこと!」
山本から放たれた羨望の眼差しを浴びながら、照れ臭そうに川島が頭を掻く。
「いやあ、ゲームの時とか、便利なんで…。」
「あ、ゲーム、ね…。」
山本がメガネの縁をちょいと動かした。
丹羽はスマホを操作しながらしばし複数の写真を凝視した後、ようやく口を開く。
「うん…、確かに左後肢から臀部にかけて、皮下組織から筋肉に至るまで赤黒くグズグズになってる。特に大腿部がひどい。ガス泡形成と血様膠様浸潤を伴った病変だな。」
「あと、枝肉全体に出血斑か…。これは立てなくて寝てたから出来た褥瘡なのかどうか、ちょっと判断がつかないな。」
山本がちらと丹羽を見る。
「内蔵の写真はあるか?」
「ええ。」
丹羽が数枚の内蔵の写真を写し出すと、山本が応接セットのソファの背もたれに背中を預け、ふう、とため息をつく。
「脾臓の病変は、そう強くないな。」
「教科書的には、炭疽なら脾臓が腫大し、脾髄が暗赤色タール状、だったっけか…。」
「ええ…。」
「さてと…。どこまで仕掛けるか、だな。」
山本は、しばし天井を見上げた後、意を決したように丹羽を見た。
「よし、最悪を想定して動こう。」
「炭疽防疫マニュアルの手順を踏んでいく。」
「今日は所長がいないから、総括は俺が代行するよ。」
「丹羽さん、アスコリー検査と血液塗抹で菌体チェック。あとは…、」
「病変部と血液サンプルで炭疽、気腫疽、悪性水腫のPCR、ですね。」
「どのぐらいで出せる?」
「アスコリーと塗抹は1時間。PCRは3時間半ですね。うちにあるサーマルサイクラー3台、一斉にぶん回しますから。」
山本がこくりと頷く。
「よし、ナベさんにサンプリングの指示出して、早速かかってくれ。病畜処理室にサンプリングセットがあるのはナベさんも知ってるはずだ。」
「あと、悪いけど、結果出るまでナベさんも作業員さんも病畜処理室から出んなよ、ってな。」
了解です、と丹羽が事務室を飛び出していく。
山本は、今度は川島を見る。
「川島君、聞いた通りだ。」
「今、豚の一般畜ラインはフル稼働中だ。病畜処理室は一般畜解体ラインとは完全に切り離された、独立した施設。だから今のところ、一般畜の処理は続行させる。」
「ただ、病畜処理室に対応するメンバーは一般畜ラインには行けない。だから、君が行って交代要員になり、今立っているメンバーと交代しながら最小限の人数で豚の一般畜処理終了まで頑張っててくれ。」
「メンバーの回し方は、今いる連中に相談してくれな。」
「は、はい…。」
「あの…、ちょっといいですか?」
「炭疽って、あの、バイオテロのニュースとかで聞いたことあるやつですよね。」
「そうだ。ヒトにだって感染する。」
「日本では昭和の時代を最後に、その名を聞くことは、もうなくなった。」
「けれどこの世からいなくなった訳じゃない。」
「ここ郷浜にはな、昭和の初期に炭疽が出たという古い記録がある。」
「相手は土壌菌。土ん中に潜む厄介なやつだ。いなくなった、出るはずがない、なんて言い切れる奴なんて、誰もいないんだ。」
「忘れた頃に、また現れる。」
「感染症とヒトの戦いの歴史って、そんなもんだろ?」
「だから食い物と人間の最前線にいる俺らは備えを怠らないし、考えられる限り最善の策で、淡々と対処する。」
「ただそれだけだ。」
「行ってくれるな?」
真正面から向けられた山本の視線を受けとめ、川島は、はい、行ってきます、と、駆け出していった。
「さて、田中君?」
山本が一平を見る。
「君は俺と一緒に、畜産公社の社長に行こう。」
山本が銀縁メガネの縁をくいっと上げてすっくと立ち上がり、事務室の壁掛け時計を見る。
時計の針は、午前十一時十分を過ぎていた。