一平の牛検査トレーニングが始まった。
白衣にヘルメット、長靴、マスク姿で、検査所からと畜場に向かう出口から外に出る。
先頭を歩く岸田が、一平に振り返った。
「ひと通り習っているとは思うんだけどさ、」
「そのひとつひとつの作業の意味とかを改めて確認してもらうために、初めての人に教える。そんなニュアンスでやってくれ、って、渡辺さんから言われちゃったんだよな。」
「ねえ、ほんと、それでいいのかな?」
岸田が一平の顔を覗き込む。
「あ、はい。お願いします。」
こくりと頷く一平を見た岸田は、ふう、と、ひとつ、ため息をつく。
「まるっきり初めてって訳じゃないんだから、俺は別に、そんなんしなくてもいいんじゃない、って思ったんだけどさ。」
「いやいや、初めてみたいなもんすから、ほんと。」
「一回それで、お願いします。」
「あ、そう…。」
こいつ…。
ひょっとして、俺を試してんのか?
岸田はくるりと前に向き直り、すたすたと歩き始めた。
二人は巨大なと畜場建屋の一番奥、豚の係留所に向かい、その脇にあると畜受付から牛の個体情報が記入してある書類を受け取って、牛の係留所に向かった。
係留所は外からは見えない。
牛の搬入をするためのトラックピットの大きなドアを開け、中に入る。
内部は体育館ぐらいの広さ。小さな明かり取りの窓があるだけ。
天井も高く、4階の天井ぐらいはある。
床面のコンクリートは、牛が転ばないように滑り止めの処理がしてあった。
その土間に、ステンレスの枠で囲まれた通路が、搬入口から奥に向かって2列、縦に並んでいる。
一番奥には高さ2メートルくらいのコンクリート製の壁が見えた。
この先が、牛のと室だ。
その壁のすぐ手前のステンレス製の枠に、白黒のブチ模様の牛が3頭、ロープで繋がれている。
その3頭の頭側に、二人は立った。
「じゃあ生体検査、やるね。」
「まずは個体識別番号を確認するから、合札1番の識別番号、読んでくれる?」
「はい、えっと…。1番はですね…、」
一平の読み上げる番号を聞きながら、1頭目の真正面に立った岸田は、牛と目を合わせながらパチンと指を鳴らした。
牛はきょとんとした目で岸田を見て、耳をすいっと岸田の方に向ける。
素早く耳票の10桁番号を読み取った岸田は、一平に、はい、オッケー、と告げた。
「それ、いいっすね。」
はは、と岸田が笑う。
「どこでもやれる、って訳じゃないんだけどさ、」
「牛が少なくて静かでさ、落ち着いてくれてるからできるんだよ。」
「牛が多い里崎なんか、狭い所にぎゅうぎゅうに入ってるからイライラしちゃって、頭振ったり動き回ったりで、耳票を見るだけでも大変なんだ。」
「なるほどですね。」
あとはさ、全体の外貌を チェックしてオッケーで、歩様は、と室に送り込む時に診ればいいからね、と言いながら、岸田が牛の検査用紙に品種や性別など、必要事項を書き込んでいく。
「じゃあ中、入ろっか。」
二人は牛の係留所から一旦、外に出て、と畜場の正面玄関へ向かう。
と畜場内のサニタリーで解体室内専用のヘルメットと長靴、グローブ、エプロン、マスクを身に付け、牛の解体室に入った。
解体室の天井はやはり、4階ぐらいの高さ。
部屋は入口から見ると左右に広がっており、3階半ぐらいの高さに解体ラインが延びている。
解体ラインの要所要所には空気圧で昇降できるステンレス製の作業台。
作業台の全てに、エプロン洗浄機と、熱湯がかけ流されているナイフ消毒槽が取り付けられており、ひと作業ごとに手やエプロンの洗浄と器具消毒ができる仕掛けになっている。
入口から見て一番左奥には、解体室の高い天井まで届く高さの、観音開きのステンレス製のドア。このドアの向こうは、つい先ほどまで生体検査をしていた、係留所だ。
係留所からと室でと殺された牛は、まず、片足で逆さ吊りに解体ラインに乗せられた後、特殊な器具を使って食道を胃の付け根の位置で結紮した上で、頭を切り落とされる。
続いて両方の後ろ足で改めてラインに掛け直された後、冷蔵室側へと送られつつ、順次、前後の足先や尾を切り取り、全身の皮を剥かれ、内蔵摘出、背割り、洗浄・整形を経て冷蔵室へと送り込まれる流れだ。
一平達が解体室内へと入り直した時には既に、3頭の牛のと殺、放血は済んでいた。
牛解体室の高いレールに1頭ずつ、片足に着けられたステンレス製の頑丈な鎖で逆さ吊りにされている。
こうして改めて見ると、つくづくデカい。
こんなの落っことしたら、大変だな…。
「じゃあ僕自身のトレーナーとしての練習も兼ねて、改めて説明しながらやってくね。」
「まずは頭検査。」
岸田が、傍らにあるステンレス製の台に向かった。
台の上には牛の頭が3つ、下顎を上に向けた状態で並べられている。
みな、既に頭の皮が剥かれており、耳も切り取られている。
「まず外貌を診たら、口腔内、舌を観察し、続いて下顎リンパ、咽喉頭リンパを切開して断面を観察、だね。」
手早く検査を済ませた後、じゃあこっち、と一平を促す。
二人が次に向かったのは、内蔵検査台だ。
内蔵検査台は、解体ラインのほぼ中間地点。
中二階ぐらいの高さにある内蔵摘出作業台のすぐ斜め下に位置している。
「じゃあいきますよ。」
作業員さんから声をかけられた岸田が、はい、と手を挙げた。
「見てて。」
岸田が作業員さんを指差した。
まず昇降台を牛の胸の高さまで上げた作業員さんは、ひとつ前の処理工程で既に胸割り機で切り開かれた牛の胸部に手を入れ、舌とひと続きになった状態で心臓と肺を取り出し、傍らのフックコンベアに掛けた。
続いて逆さ吊りになった牛の恥骨の高さまでぐいっと昇降台を上げ、スイッチを押して自分の作業台の床下に収納してあった受け台を送り出し、牛の下側にセットする。
その後、ナイフを持ち、まず恥骨からみぞおちにかけて、正中に軽く切れ目を入れていく。
続いて恥骨の位置で腹膜を小さく切開した後、ナイフを持った手を腹の中に押し入れ、ナイフの切っ先を自分に向けた状態で、腹部正中をゆっくりと頭側に向かって切り下げていった。
切り開くに従い、大きく膨らんだ牛の胃が飛び出してくる。
その重みに耐えながら、既に前の処理段階でビニル袋で包まれ、腹腔に落とし込まれていた肛門と直腸部分を慎重に自分の方に向けながら、胃と腸を慎重に受け台に落とし込んでいった。
「うまいねえ。」
思わず岸田が唸る。
「じゃあそっち行きますよ。」
作業員さんが受け台を操作し、一平達の目の前の内蔵検査台の上に、胃腸を滑り流した。
一畳ほどの広さのステンレス製の内蔵検査台が、たちまち牛の大きな胃と腸で埋め尽くされる。
「さて、いきますか。」
岸田が一平に目配せする。
「いきなりナイフ持ってパーツに向かうんじゃなく、まず全体を眺める。これ基本。」
「で、整復、ね。」
「自分の左に第一胃。で、その右に腸間膜。そして一番右に直腸。」
「位置が整えば、二胃、三胃、四胃、すい臓と十二指腸、そして空回腸まで、ばっちり見えるんだ。」
「毎回そうやってきちんと整復する癖をつけとけば、健康な牛の内蔵のイメージがしっかり頭に焼き付いてくれる。」
「まず整復。」
「豚もそうだけど、牛もこれが一番大事なんだよなあ。」
「でっかいけどね。」
そう言いながら、岸田はようやくナイフを取り出した。
「腸間膜リンパの断面診る時は、うっかり腸管を傷つけちゃわないように気を付ける。」
「胃や腸管は無駄に切開せず、必要があれば切開、ってニュアンス。中の様子が変だったら、あとで内蔵処理室の作業員さんから教えてもらえるからね。」
そう言うと、内蔵検査台の右脇に壁越しに続く内蔵処理室へ、行きますよと声を掛けた後、内蔵を処理室に流し込んだ。
傍らのレバーを操作して内蔵がなくなってしまった検査台を熱湯のシャワーで十分洗い流した後、自分のナイフとエプロン、グローブを洗浄し、ナイフを熱湯消毒槽に放り込む。
「よし、じゃあ赤物いこうか。」
内蔵検査台のすぐ後ろ側、岸田が振り返った先には、フックコンベアがある。
ひとつのフックには舌から繋がった状態で心臓と肺まで。
もうひとつには肝臓、あとひとつのフックには脾臓がぶら下がっていた。
「舌と肺の外貌を確認。で、心臓。」
「心臓の切開は右心耳を自分の正面に、心尖部に向かってまっすぐ切り下ろすんだけど、」
「こん時に心骨がナイフに当たってくるので、ちょいとよけながら切り下ろす、だよね?」
岸田がそう言いながらナイフを引き下ろすと、全く何事もなかったかのように心臓がパカリと割れて血液が流れ落ちてきた。
「で、ここをちょいとやって、」
「これで心臓の内面と四つの弁が見えました、っと、ね。」
くるりと体の向きを変え、一旦装備とナイフを洗浄消毒する。
「で、肝臓。こいつも両側の表面診たら、肝門リンパ切開と、必要なら肝門からちょいとナイフ入れて内腔診て。」
「脾臓は外貌観察が中心かな。」
「これで内蔵、一回終わり。」
再び装備を洗浄消毒し、ナイフと棒やすりをステンレス製の網カゴのようなケースに収納する。
「さ、枝肉だ。」
岸田がスタスタと隣の枝肉検査台に向かう。
枝肉検査台は、大きな牛の枝肉の後ろ足の先まで十分観察できるよう、ラインに手が届く高さまで昇降可能だ。
「これ、着けてね。」
岸田が指差した命綱を着け、共に検査台に乗る。
検査台の前には、背骨から縦割りにされた牛の枝肉がぶら下がっている。
「さ、どうかな…。」
「まず前足と首の断面を診る。」
「ズル、つまり筋間水腫が全身に走っている奴って、この時に見つけることが多いんだ。」
「だから常に健康な個体の断面をきっちりと診とく。これ大事。」
「で、次は、前足側から後ろ足側に向かって、上がりながら外側と内側、両方診ていく。」
「そして背骨の断面。ここでは脊椎の残渣が残ってないかも、十分確認する。」
「プリオン対策のキモ、だからねえ。」
岸田がニヤリと笑いながら、昇降台をぐいっと上げる。
ほんと、高けえ…。
後ろ足の先端まで見届けた後、大体、オッケーだね、と、昇降台を床の位置まで下げ、フロアに降りた。
「こんなもんで、いいのかな?」
「はい、ありがとうございました。」
「なんか、ある?」
「あっと…。わかんないやつ出てきたとき、聞いちゃっていいですか?」
「まあ、俺で分かれば。」
「助かります。ありがとうございます。」
残りの牛、やろか、と二人でその日の処理を終えた。
と畜場二階の検査員控室に戻り、ざぶざぶと顔を洗う。
「こっちの現場、初めてじゃなかったんですか?」
「たまに来てるんだよ。ほら、と畜検査の専門技術担当だから。」
「なんで、ここの構造や処理の流れはひと通り、頭に入ってる。」
なるほど…。
「かつての先輩達は、あそこはこうなんだよな、ここの流れはこうなんだから、このやり方でやんなきゃ、って、それぞれ勝手にと畜検査のやり方まで変えちゃってた。」
「そしたらさ、里崎流、とか、郷浜流とかできちゃってさ。お互いになじり合いする始末。」
「向かい合ってる牛と豚はおんなじなのに。」
「転勤して初めて別の現場に入った人は戸惑うよな。転勤初日にいきなりダメ出し食らうんだから。」
「ここまではきちんと診る、このレベルで廃棄する、という検査のニュアンスは揃ってないといけない。」
「せめて同じ里崎県の中では、ね。」
「里崎と郷浜で常に目合わせをしてと畜検査の足並みを揃える。これが俺らの仕事なんだよ。」
「だから俺らと畜検査の専門技術担当に取っちゃあさ、里崎も郷浜も、ない。」
「全部まとめて、俺らの現場なんだ。」
岸田は手にしたタオルをぽいっと洗濯かごに放り込み、じゃ、戻るね、と控室を出ていった。
一人残された一平は、ぼんやりと控室の窓から外を眺める。
と、岸田がすたすたと検査所へ向かっている後ろ姿が目に入った。
その背中を追うのを止め、一面に広がる田んぼに視線を向ける。
田んぼには水が張られ、そこここで代掻きのトラクターが動き回っている。
彼方には眩しいほどの銀色の雪を戴いた見上山と、それに連なる山々。
空が、青い。