郷浜食検の二人の新採、川島と棚橋のと畜検査トレーニングが始まった。
渡辺が真新しい装備を身に付けた二人を連れ、病畜処理室へと向かう。
病畜処理室では牛豚を一頭ずつ処理するので、検査のごく基本のイロハを教えるのには、もってこいの場所だ。
刃物の使い方や器具手指の消毒方法を習った後、豚の頭、内蔵、枝肉の検査ポイントと切開部位を解説する。
一平が最初に経験した時と同じだ。
「じゃあ今度は、豚の頭検査をやってみよう。」
渡辺が二人を豚の解体ラインへ連れていく。
豚の解体ラインはフル稼働中だ。
解体途中の豚のと体が、二階の天井ぐらいの高さに張り巡らされたラインにびっしりと並んでいる。
頭上のラインの動きに注意しつつ、所々豚の脂と水で滑りやすくなってしまっている床面に気を付けながら、三人はゆっくりと検査台へと進む。
検査台に上がり、頭検査をしていた木村に、お疲れさま、代わるよ、と言い、渡辺が頭の検査ポジションに立った。
渡辺の目の前にはベルトコンベアに整然と並べられた四角いステンレストレイが流れており、その上に、豚の頭が1個ずつ置かれている。
渡辺は頭検査をして見せながら、後ろで見ている二人に振り返る。
「二人で交代しながらちょっとやってみて。川島君から。」
はい、と言い、川島が立つ。
「えっと、あ…、」
川島がナイフを構えてようとしているうちに、頭を乗せたトレイが下流へと流れていく。
川島の下流側に立っていた渡辺が豚の頭をすかさず掴み、顎リンパ節にナイフを入れて断面を目視した後、洗浄機でエプロンとナイフ、グローブに着いた血液を洗い流してナイフを熱湯消毒槽に放り込んだ。
「OK、いいからどんどんやってみて。」
ぎこちなく頷いた川島は、戸惑いながらも見よう見まねで手を動かし始めた。
川島がなんとか頭を数個検査したのを見届けた渡辺は、川島の肩をポンと叩く。
「そうそう、そんな感じ。よし、じゃあ次は棚橋さん。」
はい、と言い、棚橋が検査ポジションに立つ。
棚橋は右手でナイフを持ったまま、両手を使ってくるりと頭の位置を整えた後、迷いもなく顎リンパ節に割を入れ、断面を診た。
そしてその動きの流れのまま体の向きを洗浄機に変え、ナイフとエプロン、グローブの血液を洗い流して熱湯消毒槽にストンとナイフを収める。
ほう…。
渡辺がヘルメットとマスクの奥で目を細める。
「うまいじゃん、棚橋さん!」
川島が棚橋の背後ではしゃぐと、え?と、棚橋が一瞬、トレイから目を離した。
「あ…。」
下流へと流れるトレイから頭を掴み上げて渡辺が素早く検査し、頭処理室へと流れるコンベアにぽいっと放り投げた。
「ほら、集中、集中。」
「すみません。」
棚橋は再びトレイに向かい、頭を掴んだ。
午前中は三人で交代しながら、そして午後からは川島と棚橋だけ手を動かして渡辺が後ろで見守る形で、その日の検査を終えた。
夕方。
棚橋が検査所の更衣室で現場で汚れた白衣を脱ぎ、顔を洗っていると、木村が入ってきた。
「お疲れさま。どうだった?今日。」
「あ、お疲れさまです。いや、もうラインの速さについていくのが精一杯で…。」
「内蔵検査なんて、できんのかな…。」
「最初はみんなそうなんだって。大丈夫。」
棚橋の背中を、木村がポンと叩く。
「そりゃそうと、よくこんな田舎に来てくれたわね。ありがとね。」
「私の生まれもこんな感じだし、大学も地方なんで、全然。それに私は、行くなら里崎、って決めてたんです。」
「へえ、そうなんだ。」
「実家のある県も頭にあったんですけど、一応他も見とかないとダメかな、って、体験実習で里崎に来てたんですよ。あそこちょっと変わってるらしいぜ、ってみんなから聞いてて。」
「家畜保健所とか試験場とか見させてもらって、牛も豚も鶏も見れるし触れるし、ってことも教えてもらって。街や景色もなんかしっくりくるし。」
「なんかここ、いいかな、と…。」
「あ、そうそう、最後は里崎の検査所だったんです。おもしろかったあ。」
棚橋がけらけら笑う。
「すんごくおっきくて目がぎょろっとしてる人、いたんですよ。」
え?と、一瞬、木村が顔をひきつらせた。
「私達つかまえて、開口一番、言ったんですよ。」
「?」
「旨いもの食いたいか?楽しく暮らしたいか?」
「じゃあ、俺んとこに来い!って。」
木村がぽかんと口を開ける。
「普通、そんなこと言いませんよね。」
棚橋が再び、けらけら笑った。
「けど、その後にしてくれた検査室の説明がとってもわかりやすくて面白くて。学校の先生だってあんな風にできないのに。」
「あ、この人、この仕事好きなんだなって、思ったんです。」
「実は、実家の県の体験実習も行ったんですけど、教えてくれた人達、なんかどんよりとした人だったり、やけにはしゃいでるんだけど話がよくわかんなかったりで、あんまりいい印象なかったんですよ。」
いたずらっ子のようににやっと笑いながら、棚橋がヒソヒソ声で囁く。
棚橋が汚れた現場で白衣を洗濯機にぽいっと放り込み、ロッカーから取り出した真新しい白衣に袖を通した。
「私は開業なんてガラじゃないし、そもそも家にお金なんかないし。結構早くから、きっと自分は公務員になるんだろなって、思ってたんです。」
「でもほら、県職の公務員なんてつまんねえよ、とかよく言われるじゃないですか。」
「里崎に行った時期って、そんなこんなでちょっと気持ちがぐらついてた時だったんですよね。」
「そんな時に、あ、こんな人いるんだ、ここ、って。」
「なら、ここにしてみようかな、って思ったんですよ。」
「理由になってませんよね。自分でもよくわかんないんです。」
棚橋が苦笑いする。
「けどなんでだろ、ストンと府に落ちた。」
「だからここにしよ、って思えたんですよねえ…。」
更衣室の洗面台で手を洗いながら聞いていた木村が、ペーパータオルで手を拭きながら、洗面台の鏡越しに棚橋を見つめ、優しく笑う。
「いいんじゃない?それで。」
木村がからりと更衣室のドアを開け、振り向いた。
「さ、今度は検査室。手伝って。課長も待ってる。」
「はい。」
棚橋が木村の後を追った。
その日の仕事を終えた一平は、川島を自分の車に乗せ、川島のアパートへと向かっていた。
「ずっとお世話になりっぱなしで、どうもすみませんでした。明日ようやく納車なんで。」
「いやいや、しょうがないよ。この辺、バスもろくに通ってないからさ。」
「あ、そうだ。僕、いいお店見つけたんですよ。ネットで見つけたんですけど、当たりです。ハンバーグが美味しくて。店の雰囲気もいいし。」
「今日まで送っていただいたお礼と言ってはなんですけど、僕にご紹介させてください。いかがですか?」
「いやいや、そんな気い使ってもらわなくて大丈夫だって。」
「それじゃ僕の気が済みませんって。どうか一回付き合って下さいよ。」
あ、そこ曲がってください、と言われるまま、ハンドルを回す。
まあ、いいか…。一回ぐらい…。
郷浜の市街地に入り、そこをそっちへ、あ、はいはい、と川島に言われるまま路地を抜ける。
あれ?ちょっと待てよ…。
「あ、あそこです。」
川島が「ロビン」と看板に書かれた小さなレストランを指差した。
あ、やっぱし…。
店の駐車場に車を入れると、川島が助手席から降り、すたすたとドアに向かう。一平は渋々、後に続いた。
川島がドアを開けると、いらっしゃいませ、と若い女性店員の声がする。
「こんちは。二人です。」
じゃあどうぞこちらへ、と川島に告げたポニーテールの女性店員は、上背のある川島の背後に隠れていた一平に、ようやく気付いた。
「あら?田中さん?」
はは、どうも、と一平が頭を掻く。
「なあんだ田中さん、ここ、来てたんですかあ。」
川島が二人をまじまじと見比べた。
「いや、来てるも何も、ねえ…。」
一平は女性店員と見合わせながら苦笑いをする。
「俺もずっとここにお世話になっててさ。」
「そうですね、お世話してますね。」
女性店員がクスリと笑った。
ハンバーグセットふたつお願いします、と、川島と一平が窓際のテーブルに着く。
「ずっと、ですか?」
「まあ、そうだね。こっち来てから。」
やがて女性店員がテーブルにやって来て、水が入ったグラスとスプーン、ナイフを置いた。
一平がグラスの水を一口含んだ後、女性店員に微笑む。
「あ、優子ちゃん、紹介するよ。こちら川島さん。春から一緒に仕事してるんだ。」
あ、そうなんですか、と、優子が川島を向いて微笑む。
「初めまして、神代優子と言います。」
「あっと、川島です!」
川島がぴょこんと頭を下げた。
それじゃあ少しお待ちくださいね、と優子がカウンターへと去って行く。その後ろ姿を見届けながら、川島がずいっと一平に顔を近づけ、ひそひそ囁いた。
「お知り合いだったんですね。」
「知り合い?まあ、知り合いっていうか、なんていうか、」
「彼女、俺のアパートの大屋さんのお孫さんなんだよ。で、アパートのことも手伝っててさ。」
「だからこっち来た最初の時から会っててさ。」
ふうん、と川島がグラスの水を一口含みながら、上目使いに一平を見た。
「…。ひょっとして…。」
「!、ち、ちゃうって!そんなんじゃないってば!」
ちっくしょう、またかよ…。
「へー、そうなんですかあ…。」
「じゃあ、僕、チャレンジしちゃおうかなあ…。」
カウンターの中で動き回っている優子を見ながら、川島が呟く。
あ、それ…、
ヤバイ…。
一平は、思わずグラスの水に目を落とした。