十五時三十分。
と畜場の外、病畜処理室からの排水が流れ出る排水口の脇。
一平と食肉公社の施設課長が、土嚢袋にどかりと腰を下ろし、のんびりと空を見上げている。
辺りにはスコップと土砂を積んだ一輪車。
そして、土の詰まった土嚢袋が数個。
一平の足元には、半分ぐらい土の詰まった土嚢袋が、だらしなく口を開け、その口にスコップが容赦なく突き立てられている。
消毒班の一平と施設課長は、簡易検査の結果が判明した時点でそのまま待機、を指示されていた。
しかしPCRの結果、やはり炭疽だった、となってしまってから土嚢袋を作り出すのでは、後手に回ってしまう。
無駄になってもいいから、PCRの結果が出るまでは作っておこう、と二人で相談し、周囲の空き地から土砂を一輪車に積んでは排水口まで運び込み、土嚢袋をこつこつと作り続けていたのだ。
「ふう…。」
一平が空を見上げながらため息をつく。
「まあ、一服、っていうことで、ね。」
施設課長がにっこり笑う。
「しっかし課長、ほんとになんでもできるんですね。」
「ええ。それが仕事なんで。」
「先生もうまくなったじゃないですか。」
課長が、かかか、と笑った。
と、一平のスマホが鳴った。
「はい、田中です。」
「山本だ。」
「PCR出た。セプティカムだ。悪性水腫。」
「出ましたか…。」
スマホを片手に施設課長に笑いかけ、OKサインを出す。
「たった今、ナベちゃんに解体再開と焼却処分、場内の通常洗浄を指示したからさ、そっち撤収してナベちゃんに手伝ってやってくんないか?」
「わかりました。」
一平が施設課長をちらりと見ると、課長は軽く手を挙げた後、よっこいしょっと腰を上げ、あとはやっときますから、と一輪車にスコップをがらがらと積み上げ始めた。
お願いします、と課長にペコリと頭を下げた後、病畜処理室の入口へ駆けつけ、病畜処理室の重いドアをぐいと開ける。
「お疲れさまです!」
一平が病畜処理室に踏み込むと、仕切り壁の向こうから渡辺がひょっこり顔を出し、にっこり笑った。
「よう、お疲れさん!」
「大変でしたね!渡辺さん。」
「まあ、サンプリングの後はカンヅメになってただけだから、大したことやってないんだけどな。」
渡辺が隣に立っていた解体作業員さんをちらりと見やる。
「やることないんで。おしゃべりばっか、してましたねえ。」
「メシ食えねえから、グルメネタは厳禁、って言われちまいましたけどね。」
作業員さんが大笑いした。
「まあ見てやってくれよ。」
渡辺に言われるまま、仕切り壁の向こう側に回る。
全身、出血斑だらけの牛が、解体レールに逆さにぶら下がっている。
特に後ろ足が血みどろで、ぐずぐずに腫れ上がっている。
「こんなの見たらさ、さすがにただ事じゃねえぞ、って思っちまうだろ?」
「ですね…。」
一平も思わず息を飲んだ。
「じゃあバラしてくれ。焼却な。」
渡辺が解体作業員さんに声をかけると、あいよ、と、作業員さんが昇降作業台に乗って牛の後ろ足の高さまで上った後、大きなチェーンソーを牛の股間に突き立てて、股間から首に向かって背骨を一気に割り進めていった。
「ねえねえ、これ見てよ。」
渡辺が自分のスマホを差し出す。
見ると、至るところに血と脂が付いて、べたべたに汚れていた。
「夢中で撮ってたからさあ、気が付いたらこんなんなってて…。」
「この前、買い換えたばっかなんだぜ…。」
渡辺が、とほほ、と泣き真似をした。
まあ、しょうがねえけどな、と言い直し、一平に向き直る。
「一平君、ここは俺らで大丈夫。サンプリングも終わってるし。」
「検査室、大丈夫かな?」
「そういや、そうですね…。行ってみます。」
「ああ、頼むよ。」
一平は、今度は検査所の通用口に駆け込む。
更衣室で土ぼこりの付いた白衣を脱ぎ捨てて手洗い洗顔を済ませ、きれいな白衣に着替えた後、細菌検査室へと向かう。
細菌検査室のスライドドアにはめ込まれたガラス窓から恐る恐る中を覗き込むと、白衣姿の丹羽と木村が、きれいに整頓された実験台を挟んで向かい合い、談笑していた。
ほっと息をつき、ドアを開ける。
「お疲れさまでした。」
「よう、お疲れさん。」
丹羽が優しく微笑む。
「病畜処理室は、いいのか?」
「ええ、渡辺さんが、大丈夫だからこっち行ってみて、って言ってくれて。」
「そっか…。」
丹羽がふう、とひと息ついた。
「で、課長、続きなんですけどね、」
一平に構わず、木村が丹羽をぐいと見やる。
「私は悔しいんですよ。」
「LAMPが使えれば、1時間で答えが出せるのに、って。」
「それは分かった、ってば…。」
丹羽が木村から目を反らし、一平をちらりと見る。
「ね?やりましょうよ!」
木村が構わず続けた。
目線を一平から床に向けていた丹羽が、再び木村を見る。
「陽性コントロールはどうする?」
「炭疽の生菌、最低でもDNAがないと、できねえだろうが。」
「そこをうまくやってですね…、」
「どうやって?」
今度は丹羽が木村を睨み付ける。
「炭疽の生菌なんて、分与してもらえるはずないだろうが。DNAだって、まあ出さんだろうな、国は。」
「お前さんだってそんぐらい、知ってんだろ?」
木村は丹羽を睨み付けたまま、黙りこんでいる。
「検査所の俺らが、自分達で炭疽診断用のLAMP手法を開発するなんてのは、絶対無理だ。」
「生菌を保存してて、ハイレベルのバイオハザード実験施設と、その施設での実験に習熟した技術者を抱えている国の研究所。」
「そこでないと、できない仕事なんだ。」
「だからな、全国会議の場とかでさ、そいつらに必要性を訴え、開発してもらうように訴え続ける。」
「田舎の検査所の俺らにできんのは、せいぜいそんなことぐらいなんだよ。」
「諦めろ。」
丹羽は背もたれにぎしりと背中を預けた後、椅子をくるりと回した。
木村は黙りこんでしまっている。
「また宿題が増えてしまったな。」
丹羽が言うと、木村はぷいと立ち上がり、洗い物してきます、と準備室へと出ていった。
器具洗いをする木村が立てる、がちゃがちゃという派手な音を聞きながら、丹羽が眉毛をへの字に曲げ、一平を見る。
「まーた怒られたよ、鬼姫さまに。」
丹羽が苦笑する。
ははは、と相づちを打ちながら、一平はぼんやりと細菌室を見渡した。
と、無造作に開け放たれた無菌室の安全キャビネットの中の、ケーブルに繋がれたビデオカメラやカメラ付き顕微鏡に気付いた。
「あれ?こんなの、ありましたっけ?」
「ああ、これ?」
「俺がこっちに来たとき、こつこつやっといたんだ。」
「今日みたいな日に、あると便利かなって思ってさ。」
「細菌室や無菌室の映像情報を事務室でモニターできるようにすれば、やばい奴が出たときに上と情報交換しやすくなるかな、って思ってさ。」
「お金かかったんじゃないんですか?」
「いやいや。パソコンやモニター、カメラ、ケーブルも、みーんな検査所のそこらへんに転がってた骨董品の寄せ集めだよ。」
丹羽が大笑いする。
「まさかほんとに使うことになるとは思わんかったけどな。」
すっと真顔に戻った丹羽が、ふんと鼻を鳴らした。
それじゃあ事務室に戻りますね、と、一平は細菌検査室を出る。
二階に上って事務室前の給湯室に入り、自分のマグカップにインスタントコーヒーの粉をさらさらと入れていると、ドアが開け放たれた事務室の中から、山本次長の大声が聞こえてきた。
なにやら電話で話し込んでいるようだ。
「だからですね、やってみて初めて、確認できることなんですから!」
「今時、炭疽なんか出るわけねえだろ、何大騒ぎしてんだ、なんてのは外野の奴等の言い方ですよ!」
「俺らは現場で張ってるんです!」
暫し沈黙した後、山本が電話の向こう側の相手に続ける。
「見極めが遅い、とおっしゃいますが、県であらかじめ決めた手順を踏んだだけです。」
「手順にご不満があるのであれば、どうか県庁にお問い合わせください。」
「…。え、牛を担当した検査員ですか?熟練した検査員ですけど、何か…。」
「…そうです。彼から送られた情報をもとに、私を含めた複数の検査員で判断し、対応しました。」
「…。もちろんです。県庁衛生課には後ほど報告書を出します。それを見ていただければ…。」
「…。はい、では、失礼します。」
山本の声が途切れ、事務室がしんと静まり返る。
給湯室でしばらく思案していた一平は、今来たような顔をかろうじて取り繕いながら、コーヒーの入ったマグカップを持ち、お疲れさまです、と事務室に入った。
たった一人、ノートパソコンを睨み付けながら事務室の自席に座っていた山本。
一平に気付くと、気まずそうに立ち上がり、充血した目でぎこちなく笑った。
「お疲れさん。」
「今日はありがとな。」
「いえ、次長もお疲れさまでした。」
山本はゆっくりと一平に背を向け、窓の外を眺めながら、独り言のように呟く。
「何事もなくて、よかったなあ…。」
「ですね…。」
やっとの思いで山本に返し、自席に座ってマグカップのコーヒーを一口啜る。
すっかり冷めてしまったコーヒーが、重く静かに胃の中に流れ込んでいった。