畜産公社事務室の一角にある物置部屋。
「えっと…、これでしょ、あとは…。」
公社の施設課長がどさどさと資材を床に放り投げる。
「じゃあ玄関まで持っていきますね。」
「あ、お願いします。すいませんねえ、手伝ってもらっちゃって。」
よっこらせっと外に運び出し、台車に乗せて荷崩れしないように支えながら、病畜処理室へとそろそろと二人で歩き出した。
「しっかし、ガスマスクですか…。」
「ええ。これないとぜーったい無理ですね。」
「なんせ使う塩素の濃度が桁違いだから。もう目なんか開けてらんないし、息だってできないんですよ。」
「課長は経験されてたんですか?」
「ええ。何年前になるかなあ…。あん時はBSE騒ぎでしたねえ。」
「BSE…。」
「そう。ほら、検査所のエライザ検査で2回陽性になると、国の機関に送って確認検査してもらうルールじゃないですか。」
「検査所の2回目検査で陽性になった時点ですぐ消毒しちゃえって、県のマニュアルで決められてるんですよ。」
「あ、釈迦に説法、でしたね、こりゃ失礼。」
「消毒さえ済ませちゃえば、国の検査結果に関わらず、最短の時間でと畜を再開できますもんね。私もそれでいいと思いますよ。」
「実際、どんな感じだったんですか?」
「あん時ゃ、大動物解体室でしたねえ。」
「防塵服にゴーグル、ガスマスク姿で噴霧器背中に背負ってそこいらじゅうに吹き掛けて。ジョウロ片手にシャー、とかね。」
「もう、どっかのニュース映像そのまんまですよ。」
かかか、と課長が笑う。
「で、次はきちんと水で拭き取って。でないと腐食しちゃって機械がみんなダメになっちゃいますから。」
「…。」
「と畜場ってやつはねえ、先生?」
「はい?」
「相手が生き物なんで、ほっとくとどんどん大きくなって肉質も悪くなっちゃうし、畜舎もいっぱいになっちゃう。病畜で処理しなきゃいけない奴だって、毎日出てくる。」
「だから何日も閉める、なんて訳にはいかないんですよ。」
おっとっと、と、課長が荷崩れを直す。
「毎日フル稼働できること。これが一番なんです。」
「でも毎日フル稼働してると、それこそ毎日、どっかこっかで不具合が起きちゃう。」
「それをあっちこっちもぐり込んじゃあ、直して回ってる。」
「それがあたし、ってね!」
課長がバチンとウインクした。
課長のウインクを苦笑いで返していると、二人の前方から、不織布でできたディスポーザブルのガウンとフェイスシールド、マスク姿の木村が、ビニル袋に入れたコンテナボックスを抱えて走ってきた。
お疲れさまです!という一平の声に無言で手を挙げて応じ、木村が検査所の通用口に飛び込んでいく。
いよいよ始まる…。
「さあて、僕らも行きますか!」
台車の取っ手をぐいと握りしめた。
検査所一階の廊下。
細菌検査室のスライドドアの前で一旦呼吸を整え、木村がゆっくりと細菌室のドアを開ける。
細菌検査室に入ってすぐ左手にもうひとつスライドドアがある。
ここだけは自動ドアになっていて、手を近づけるだけで開けることができる仕組みだ。
ドアには大きな窓が嵌め込まれており、そこから中の様子を見ることができる。
ここは無菌室。
2畳ほどの小部屋。
その半分を占めているのが、安全キャビネットと呼ばれる装置だ。
横幅2メートル、奥行き1メートル、高さ2メートルほどの直方体のその装置は、正面に大きく透明なシャッターがついたステンレス製の実験台だ。
特殊なフィルターを介した風の流れをその内部に作り出すことにより、シャッターの内部を常に陰圧に保ち、シャッターの外に微生物が出ていかない構造になっている。
部屋の中には、木村と同じディスポーザブルガウンとマスク、グローブ、フェイスシールド姿の丹羽。
丸椅子に座って安全キャビネットに向かい、シャッターを少し開けて腕だけを中に入れ、何やら作業中だ。
木村がコツコツ、と窓をノックする。
「おう、さんきゅ。」
丹羽が振り返り、窓越しに指示をする。
「袋、大きく開けて、そこの滅菌缶に入れてくれる?」
「あとは、下がってて。」
指示通りにすると、丹羽が無菌室のスライドドアを開け、ビニル袋からコンテナボックスを取り出し、無菌室へ持ち込んだ。
スライドドアを閉め、再び窓越しに指示する。
「今着てるガウン、シールド、マスク、グローブを全部、その缶に入れてオートクレーブ、な。」
「で、PCRの準備。打ち合わせ通りに。」
「DNA精製さ、アスコリーと菌の染色優先すっから、ちょいかかるぞ。」
「一発で決めたいから、スピードじゃなく、手順の確認優先でな。」
矢継ぎ早にそこまで言い切った丹羽は、緊張した面持ちで頷く木村に気付き、マスクの下で優しく微笑んだ。
「大丈夫。いつも通りにやりゃいいのさ。」
んじゃ、よろしく、とくるりと背を向け、丹羽は無菌室内での作業に戻った。
滅菌缶をオートクレーブに入れた木村は、大きく深呼吸した後、両手でピシャリと頬を叩く。
「よおーし!」
ディープフリーザーから試薬を取り出してPCR室に入り、クリーンベンチにマグネットで貼り付けた3枚のレシピを見ながら、マイクロピペットで慎重に反応液を調製していく。
1マイクロリットルレベルの繊細な作業。
日々仕事でやっているとはいえ、余計な情報があるとさすがに緊張してしまう。
けど、なんでだろう。
今日は何故か、ほんの微かなピペットの操作感の違いすら、はっきりと感じる。
いける…。
木村は使用済みのチップを捨て、新しいチップが入ったコンテナボックスにピペットをぐいと差し込んだ。