いただきまーす! season2 第1話

小説

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古びた銀色の軽自動車のエンジンキーを回し、これまた古い木造総二階建てのアパート、幸福荘の駐車場から、ゆるゆると走り出す。

見慣れた近所の路地を抜け、いくつかの交差点を過ぎると、田んぼの中の一本道に出た。

ああ、久しぶりだな、この感じ…。

朝なのにもう日差しが強い。
春だ。

車の窓を少し開けてみると、春の爽やかな風が吹き込んできた。
まだ少し、冷たい。

うーん、気持ちいい。
いい季節になったなあ…。
あの猛吹雪、一体なんだったんだろ…。

…。

「くっさ!」

急いで車の窓を閉め、一面に広がる田んぼを睨み付ける。

田んぼのそこここには、黒々とした堆肥が山と積まれていた。

あ、そっか。田起こし始まんのね…。
まあ、これも春の風物っちゅうことで、ねえ…。

苦笑いしながらアクセルを軽く踏み込んだ。

東京出身の獣医師、田中一平は、たまたま転がり込んだ見知らぬ土地、里崎県郷浜市で暮らし始めて2年。
最初の1年を郷浜食肉衛生検査所、2年目を同じ郷浜市にある郷浜保健所に勤務し、この春、3年目を迎える。

3年目の勤務先は最初の勤務地、郷浜食肉衛生検査所だ。
今日は異動初日。

一本道を抜けると、やがて見慣れた大きな建物の傍にある、二階建てのコンクリート造りの建屋の駐車場に入る。
ここが郷浜食肉衛生検査所だ。

一平が車を降りると、一台の白い乗用車が静かに駐車場に入ってきて停車し、頭の薄い小柄な初老の男が降りてきた。
「あ、水戸所長!おはようございまーす!」
一平が駆け寄る。

「やあ、おはよ。早いねえ。」
「いや、なんか早く着いちゃって。」
思わず頭を掻く。
「あっと、またお世話になります。よろしくお願いします!」
「いやいや、こちらこそ。頼りにしてるよー。」
小柄な水戸所長が、背伸びをしながら一平の肩をぺしぺしと叩く。
「いやあ、頼りにされちゃっても、困っちゃうっすよお。」
「何言ってんの。中のこと知っててくれる人は、なんぼいても大助かりなんだってばあ。」
水戸所長が 一平の背中をポンと叩いた。
「うへへ。」

一平がにやけていると、今度はベージュ色の軽自動車が入ってきた。
軽自動車は大急ぎで駐車すると、運転席から切れ長の目をしたセミロングの女性職員が降りてきた。

女性職員は車を降りるなり、両手を高々と挙げてぶんぶん振り回しながら叫ぶ。
「おはよー!一平君!朝イチの現場だから、早く準備してー!」
「へ?」
一平が慌てて駆け寄る。

「山田主任、またよろしくお願いし…」
一平のあいさつを聞こうともせず、山田は一平の手をふん掴まえると検査所の玄関に向かって走り出した。
「挨拶なんかあとでいいから!あのさ、なんやかんやで現場の人手が足んないのよ。あんたの道具一式出してあるから、さっさと現場行ってくれる?今日は休日開場シフトで最小人数で現場回すから!」

「もう、まったく!年度初日だっつうのに、なんでこうなっちゃうのかね!所長!こういうのは今回限りにしてくださいよ!」
一平を引きずりながら山田が大声で怒鳴る。

「あ、それは大丈夫だってばあ。僕、今年で定年だから。」
水戸所長は薄い頭を撫でながらカラカラと笑い飛ばした。

「もう構ってらんない!ほら行くよ、一平!」
検査所の玄関に駆け込むや否や、矢継ぎ早に白衣やらスリッパやらを持たされた一平は、更衣室に追い立てられる。
「朝イチは私と内蔵検査だからね。じゃ。」
山田が隣の女子更衣室に飛び込み、バタンとドアを閉めた。

あっけにとられた一平は、ふう、とため息をついた後、ネクタイを緩めた。

と畜場の豚解体処理室に入り、白衣に白長靴とヘルメット、胸まであるエプロン姿でナイフを持ち、20畳ほどの四角いスノコ張りの検査台に立った。
一平と山田は共に内蔵コンベアの前に立っている。
同じ検査台で一平達と背中合わせに立ち、頭コンベアに向かって立っているのは、一平と同じ指導課の渡辺だ。渡辺とも最初の年にここで一緒に仕事をしている。

渡辺が一平の背中をつつく。
「またよろしく。」
「こちらこそ、よろしくお願いします、です。」
一平が振り向き、マスクの下からにっこりと笑った。

久々の豚の内蔵検査。

辺りを見回すと各解体ポジションに立っている顔見知りの解体作業員さん達が一平に気付き、マスク越しににっこり笑いながら手を降ってくれる。

一平も作業員さん達に手を降りながらペコリと会釈をした。

ああ、ホーム、って感じだな…。

解体が始まり、ぎこちなく検査を始める。
けれど、なんだろう。思っていた以上にスムーズだ。
体が覚えていた、ってやつか…。

結構、抜けないもんなんだな…。
助かった。

しばらく経つと、内蔵検査をしている一平の背中を、お疲れさまです、と、誰かが突ついた。

最小人数の変則ローテーションなので、小刻みに交代しながら休憩を取り、解体ラインが止まるお昼まで、その検査員の人数で豚の頭検査と内蔵検査、枝肉検査をやり切るのだ。午後の現場検査もそのローテーションで回し、今日一日の検査をこなすことになる。

「じゃあ、お願いします。」
そう言いながら一平が体をかわすと、交代に来たその検査員は、するりとポジションに入るやいなや、次の豚の心臓を掴んですいっとナイフを入れた。

切れる…。

思わず見入る一平の視線に気付いたのか、交代した検査員は心臓の割面を診た後、心臓を掴んだまま一平に視線を向けた。
「里崎から来た、岸田です。よろしく。」
「あ、よ、よろしくお願いします。」

岸田の邪魔にならないように気をつけながらナイフとエプロン、グローブに着いた血液を洗い流し、検査台を降りた。

解体処理室を出てサニタリーに入った一平は、ナイフと棒ヤスリが入ったステンレス製のカゴを消毒槽に浸けた後、グローブを外し、ヘルメットを脱いで流しの前の鏡に映った自分の汗ばんだ顔を見る。

里崎食検の岸田さんって、あの人か…。
確か、この春から俺と同じ指導課だったっけ…。

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