異動初日の昼休み、事務室。
一平君はここね、と山田が示した指導課の机に向かい、椅子にどかりと腰を下ろす。
出勤途中にコンビニで買っておいたブリックパックの野菜ジュースのストローをパックにぐいっと突き刺して勢いよく一口吸い込んだ後、サンドイッチの包装を開けてむんずと掴み、がぶりと噛りつく。
ひときしり咀嚼した後、ようやくごくりと飲み下した。
「ぷはあー、うんめ。」
「お疲れさん。ありがとね。けど、ブランク感じなかったじゃない。」
斜め左前の机で弁当箱をつつきながら山田がクスクス笑う。
「そっすね。自分でも意外だった、つうか…。」
苦笑しながらサンドイッチをもうひと噛りした。
お疲れさまです、と言いながら、渡辺が岸田を連れて事務室に入ってくる。
岸田はお湯を入れたカップ麺をこぼさないようにと、慎重に歩いて来た。
「お疲れさまです。」
一平が岸田に声をかける。
一平の向かいの席にカップ麺を机に置いた岸田は、ようやく顔を上げ、にこりと笑った。
「お疲れさまです。里崎食検から来た、岸田です。」
あ、感じのいい人、かも…。
少しほっとしながら微笑み返す。
山田が岸田の顔を覗き込み、両手を合わせる。
「岸田君、ごめんね。異動早々こき使っちゃって。」
「いえいえ、辞令は昨日里崎で貰って来てるし、なんでもないっすよ。」
岸田が山田に応じる。
アパートとかは?ええ、職員アパートで…、と二人が談笑している。
渡辺が一平の左隣の席に着き、弁当箱を広げ始める。
「一平君、岸田君は初めて?」
渡辺が箸を取り出しながら一平に尋ねた。
「ええ。」
ぎこちない視線を渡辺と岸田を向けながら、答える。
岸田がカップ麺を啜りながら一瞬、目線を一平に向けたのだが、一平は気がつかない。
「岸田君は里崎食検の若手筆頭。と畜検査の専門技術担当なんだ。」
「あ、そうなんですね。」
岸田に視線を送るが、岸田はカップ麺を啜るのに夢中のようだ。
サンドイッチを食べ終えた一平は、野菜ジュースを一口飲む。
「ほら、今度新人君が二人来るだろ?新人君のトレーニング、岸田君にも手伝ってもらうんだ。」
「そうそう、君の牛検査のトレーニングも頼もうかと思ってさ。」
「あ、牛、っすか?」
「そうだよ。うちは豚が主力で牛が少ないから、なかなか牛検査の経験積めないじゃない?里崎は牛がメインの所だから、彼なら安心して一平君を頼めるかなと。どう?岸田君?」
ようやく顔を上げた岸田が、にこりと笑う。
「いやあ、僕でいいんですかね?たいしたことできませんけど…。」
「何言っちゃってんの。里崎の指導課の我妻さんだって太鼓判押してたからさ、大丈夫だって。頼むね。」
「まいっちゃったなあ…。」
里崎食検の我妻。最初の年、一平にと畜検査を教えてくれた人だ。
一平が保健所へ転勤した同じ年に、里崎食検へ異動している。
相変わらず、あの高アングルでやっちゃってんだろな…。
一平が思い出し笑いをしていると、岸田が一平と渡辺にペコリと頭を下げた。
「えーと…、じゃあ、よろしくお願いします。」
「あっと、こちらこそよろしくお願いします。」
慌てて深々と頭を下げた。
ふう…。
牛か…。
と、バタンと事務室のドアが開き、バタバタとショートカットの女性職員が入ってきた。
検査課の木村だ。
「あ、岸田さん、一平君、よろしくお願いします。」
木村はペコリと頭を下げると、そのままバタバタとFAXに駆け寄り、バシバシとパネルを操作してFAXを送っている。
「保留、解除できたの?」
山田が弁当箱を閉じながら振り返り、木村に尋ねる。
「ええ、なんとか。」
そう言うやいなや、検査課の自分の机からコンビニ袋を引ったくると、またバタバタと駆け出して行った。
「ご飯ぐらい、座って食べればいいのにねえ。」
山田が苦笑する。
「なんか忙しそうだったですけど…。」
「木村さんは今日は生体検査なんだけどさ、」
「今日人数足りないでしょ?こんな日に限って検査課は彼女一人。」
「しかも今日判定しないといけない保留があってさ。生体入荷の空き時間狙っては検査室に戻ってきて作業してるの。」
「今日はたまたま牛がないから、まあ、やれるっちゃあやれるけど、それにしても、ねえ…。」
山田がため息をつく。
と、事務室に初老の男性職員が入ってきた。
あ、石井さん、お疲れさまです、と、山田が声をかける。
石井は一平の斜め右前の机に着き、持っていた湯飲み茶碗をコトリと置いた。
「石井さん。岸田さんと田中さんです。」
山田に紹介された石井は、恥ずかしそうにポリポリと頭を掻きながら弁当箱を机に置いた。
「再任用の石井です。」
一平達にペコリと頭を下げる。
よろしくお願いします、と、岸田と一平も石井に向かって頭を下げる。
渡辺が、ねえねえ、と岸田と一平に尋ねる。
「二人は石井さんとは初めて、かな?」
ええ、と岸田と一平はこくりと頷いた。
「石井さん、里崎保健所の重鎮だったんだぜ。」
「おいおい、重鎮、は、やめて下さいよ。」
石井はくしゃりと笑いながら弁当箱を広げた。
「石井さんってさ…、あれ?もうこんな時間だ。午後の処理始まるから、行かなきゃ。」
石井さん、ごめんなさいね、と言いながら 、渡辺が席を立つ。
どれどれ、と山田と岸田も腰を上げた。
一平も野菜ジュースのブリックパックをくしゃりと丸めてゴミ箱に放り込んだ後、三人の後を追った。
午後の処理を終えた頃には日が傾き始めていた。
最後の枝肉検査を終えた一平は、検査所の男子更衣室でざぶざぶと顔を洗う。
「ぷはー!」
タオルで顔を拭いていると、がらりと戸が開き、男性職員が入ってきた。実直そうな銀縁メガネのスポーツ刈り。山本次長だ。
「お、終わったね!」
「あ、次長、よろしくお願いします。」
一平がタオルを片手にTシャツ姿のまま、山本にペコリと頭を下げる。
「こちらこそよろしく。今さ、新人君、県庁から連れてきたんだ。なんとか間に合ったよ。」
「え、次長が連れてきたんですか?」
「そうだよ。入庁初日に事故られると困るから車運転させんな!ってお達しが来ててさ。二人まとめて私が迎えに行ったんだよ。」
「早速全体会始めるからさ、すぐ来てね。」
「あ、はい。」
山本がにこりと笑い、バタバタと更衣室を出ていった。
迎えに、か…。それで朝からいなかったんだ。
俺ん時はバスだったよな。
あ、そうそう、石川さんのぶっ飛びジムニー乗せられたなあ…。
つらつらと思い出しながら二階に続く階段を上がり、会議室のドアをがちゃりと開けると、もう皆、席に着いている。
気まずそうに一番隅の椅子に座ろうとすると、山本がこっちこっち、と上座の席を指差した。
ロの字に配置された長テーブル。
ホワイトボードを背にした上座の真ん中に所長、その左隣に岸田、右隣には一平。岸田と一平の隣に一人ずつ、新採と思われるスーツ姿の若い職員が座っている。
岸田の隣は細身の男性。一平の隣はメガネを掛けた小柄な女性だ。
女性職員はおどおどしながら一平をちらりと見て、黙って会釈をする。
一平もぎこちなく会釈を返した。
上座の端に座っていた山本次長が立ち上がる。
山本は銀縁メガネの端をくいっと上げた後、全員を見渡した。
「えー、それでは今年度当初の全体会を始めます。まずは所長のあいさつから…。」
山本から促された水戸所長が、いつものように薄くなった頭を撫でながら立ち上がる。
「えー、終業時間もせまってますから手短に、と言われてますんで。」
「今年はお集まりの皆さんでやらせていただきますので、どうかよろしくお願いいたします。」
では、詳しくは山本さんからご説明があります、と言い、水戸所長がそのままぽてんと腰を下ろした。
いきなり振られてあっけにとられた山本は、はっとして慌てて進行する。
「ではまず、新しく来られた方々から自己紹介を。」
じゃ、岸田君から、と促され、岸田が立ち上がる。
「里崎食検から来ました、岸田です。よろしくお願いします。」
会場の拍手を受けた岸田はペコリと頭を下げ、すとんと腰を下ろした。
あ、もういいの?と山本が小声で尋ねるが、ええ、と返した岸田は薄く微笑んだまま前を向いている。
「じ、じゃあ田中君。」
山本から促され、一平が続く。
「郷浜保健所から来ました、田中です。またよろしくお願いします。」
ぺこりと頭を下げる。
拍手を受けながら顔を上げると、顔見知りのメンバーがにやにや笑っているのに気付いた。
あらら、なんか、やな予感…。
それじゃあ君ね、と山本に促され、岸田の隣に座っていた新人君が立ち上がる。細身で、背が高い。
「川島悟と申します。指導課に配属されました。どうぞよろしくお願いします。」
皆の拍手を受けながらぺこりと頭を下げ、川島が席に着いた。
じゃあ、ね、と最後に促された一平の隣のメガネの女性職員が、立ち上がる。
あ、この子、小っさい…。
「棚橋郁です。検査課です。よろしくお願いします。」
棚橋がぴょこんと頭を下げ、拍手を受けながら上気した顔を上げる。
末席に座っていた木村が、にっこり笑いながら両手を高々と上げ、ぶんぶん振っている。
そんな、あからさまにせんでも、なあ…。
一平は苦笑いした。
あたふたと全体会を終えた一同は、がやがやと事務室に戻ると、お疲れさまでした、と言いながら事務室から去っていく。
「あ、棚橋さーん!」
新採の女性職員、棚橋に木村が駆け寄る。
「あたし送ってくからさ、行こ。」
「はい!すみません、お願いします!」
棚橋がぴょこんと頭を下げた。
二人がパタパタと事務室を出ていくのをぼんやり眺めていたら、次長席で山本と打ち合わせをしていた渡辺が、おーい、一平君、と呼ぶ。
「あのさ、川島君送ってってくれる?あと、明日も迎えに行ってあげて。彼、車ないからさ。」
え?
思わず川島に振り返る。
細身で長身の川島が、すらりと立ったまま、にこにこと笑っていた。